【謝罪論】誠意はどこに?「謝る」から考える、オフィスのコミュニケーション
ふつう謝罪といえば、起こった問題の解決と収束を目指すもの。ところが謝罪の場でのひと言が炎上につながったり、一見完璧に見える謝罪でもどこか釈然としなかったりと、どうも人はなかなか上手に謝ることができません。なぜなのでしょうか。
その疑問に迫ったのが、『謝罪論 謝るとは何をすることなのか』(柏書房)の著者である、東京大学大学院人文社会研究科 准教授の古田徹也さんです。謝罪が失敗する原因から、職場での謝罪の役割まで、古田先生に謝罪のあれこれを伺いました。
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古田 徹也/ふるた てつや
東京大学大学院人文社会系研究科 准教授。1979年、熊本県生まれ。東京大学文学部卒業、同大学院人文社会系研究科博士課程修了。博士(文学)。新潟大学教育学部准教授、専修大学文学部准教授を経て現職。専攻は哲学・倫理学。著書多数。最新著に『言葉なんていらない? 私と世界のあいだ』(創元社)。
「謝罪のプロ」は、なぜ信用されないのか

──著書『謝罪論 謝るとは何をすることなのか』では、哲学の観点で謝罪にフォーカスされています。そもそも、このテーマに取り組まれたきっかけは何だったのでしょうか?
古田 執筆の直接のきっかけとなったのは子育てです。子どもに「ごめんなさい」を教えるのって、難しいなあ……と。と同時に、「私は謝るという行為をどのくらいわかっているんだろう」という哲学的課題として跳ね返ってきたんです。そこであらゆる角度から謝罪を見つめ、解像度を上げてみようと試みたのが『謝罪論』です。
ただ昔から、企業や政治家、芸能人の公の場における謝罪に関心があったんですね。というのも、謝罪時の言動が炎上したり非難されたりと、かなりの頻度で失敗が見られる。でも私たちは幼い頃から、何度も謝る経験を重ねていますよね。ふつうは、それだけ経験すればだいぶ上手になりそうなものですが、こと謝罪に関しては、いい大人になっても上手くいかないことが多い。それがなぜかをよく理解したいと思って、いろんな謝罪のケースを集めていたのです。
いま、「上手く謝罪する」ということについて触れましたが、このこと自体に、謝罪についてよく考えるための鍵があると思っています。というのも、「上手い謝罪」というのは必ずしも良い謝罪ではないからです。たとえば、「謝罪のプロ」なる人がいるとして、そういう人がする謝罪って逆に信用ならないですよね。本当に謝っているんだろうか、そこに誠意が本当にあるんだろうかと、私たちは疑うと思います。謝罪って、そもそも「マスターする」とか「プロになる」という種類のものではないのではないでしょうか。書店に行けば、上手な謝罪の仕方やクレーム対応のハウツー本が並んでいます。けれども実際は、たどたどしさを感じても納得できる謝罪のケースもある。むしろ手法論に落とし込み、手練れになるほどどんどん本当の謝罪からかけ離れていくという矛盾が、謝罪の非常に興味深い点です。
──そもそも私たちは謝罪という行為に、何を期待しているのでしょう。
古田 多くの場合、謝罪には、加害者(謝る側)と被害者(謝られる側)という関係が存在します。そういう場合、謝罪はまずもって、問題となる出来事について、加害者がどう認識しているかを表明する場です。そのうえで謝る側、つまり加害者側が期待するのは、相手に許してもらうこと、信頼を回復して相手との関係を修復すること、あるいは賠償などの責任が減免されることが挙げられるでしょう。
ただ、いま挙げたものは、すべて謝る側の都合なんですよね。実際問題、謝る側は自分の都合を多少なりとも叶えたいから謝罪する、という面が大きいでしょう。
──関係の修復などは、言ってしまえば「謝る側の利益」ですからね。
古田 けれども謝られた側は、関係の修復など望んでいるとは限らない。特にしゃれにならない大きな被害や損害が生じたときなどは、「謝罪など結構です」と門前払いをされることもあるわけです。
謝罪は本来、被害を受けた相手のために行うものです。どんなに綺麗事と言われても、そうであるはずです。だから、謝る側の誠実さと真摯さ、そして誠意が問われる。自分が悪かったという反省の意思と、害を被った相手のために何ができるのかという思いが伝わらなければ、十分な謝罪をしたとはいえないでしょう。ましてや、許してもらおうとか責任を回避したいといった、謝る側の下心ばかりが透けて見えてしまっては、打算的なアクションとして映ってしまうのです。
あえて“謝らない”という選択で組織の誠実さを伝える

──『謝罪論』では、謝罪は謝る側と謝られる側の「コミュニケーションの起点」だと説明されていました。
古田 とりわけ、何か重大な不祥事を起こしたときなどにする「重い謝罪」の場合ですね。謝罪とひと口にいっても濃淡があって、たとえば満員電車の中で肩が触れてしまって「すみません」と言うケースは「軽い謝罪」と言えます。このときのお詫びは儀礼的なものであって、不調和な空気をメンテナンスする役割を果たしています。そういう「軽い謝罪」は、一方が謝って、相手がそれに会釈を返したり「いえいえ」と答えたりして、それで終わるべきコミュニケーションともいえます。
一方「重い謝罪」の場合、反省の意思を示すのに加え、起こった出来事をどう受け止めていて、どのようにして償うかといった責任の対処を伝えることが重要になります。「あなたのために私は今後どうするのか」の表明ですから、そこでの謝罪の言葉はコミュニケーションの終わりではなく、むしろコミュニケーションの起点にあたるわけです。
そして、こうした「重い謝罪」が失敗する典型例として、幕引きを急いでしまうパターンがあります。たとえば、会見に時間制限を設けたり、質問を受け付けなかったり。会見の目的が謝罪よりも騒動への対処にすり替わり、「どうにかして炎上を鎮火させたい」「火消しをしたい」という意図が見えてしまうのです。
「お騒がせして申し訳ありません」みたいな、とりあえず謝っておく態度が逆に炎上することもありますよね。「状況や問題点を理解していないのでは」と受け取られてしまう。迅速さは大切だけど、拙速なのもよくない。謝罪は選択を誤ると、謝る側の姿勢や理念さえも疑われてしまう。ここが難しいところです。
──裏を返せば、「謝る側の誠実さや真摯さ」が如実に顕在化するのが謝罪というわけですね。
古田 「重い謝罪」に関してはそうだと思います。組織の誠実さという面で、興味深い例もあります。全国にスープ専門店を展開するスープストックトーキョーの事例です。同社が全店で離乳食の無料配布を始めたところ、賛否両論が巻き起こったのです。とりわけSNS上では、「子連れ客だけを優遇するのか」「店が騒がしくなる」など、いわゆる炎上が生じました。
これを受けて、同社はWebサイト上に声明文を出しました。同社がなぜ離乳食の配布を始めたのかを「世の中の体温を上げる」という理念に基づいて説明し、また特定の顧客だけを優遇することはないと明言しました。ここで注目すべきは、声明文には謝罪を想起する言葉がひと言もなかったことです。
──ふつうなら、さらに炎上しそうです。
古田 しかし結果は逆でした。会社としての信念を貫く姿勢が評価され、むしろ取り組みに批判の目を向けていた人たちが非難される展開ともなりました。ここで重要なのは、経営が目先の出来事に翻弄されず、自社の本分や理念をよく踏まえたうえでメッセージを届けられたことです。
仮に「お騒がせしてすみません」と発したならば、どうなったでしょう? 店舗に立つスタッフが矢面に立たされ、対応に追われることもありえたと思います。同社はおそらく、 “謝らない”という選択を意識的にしました。その結果、従業員を守ることにもなったわけです。
硬直をほぐす第三者の存在が軌道修正につながる

──日々の業務での謝罪には、謝罪のもとになった出来事を軌道修正するという側面もあるかと思います。
古田 そうですね。謝罪はしばしば、当事者間のわだかまりをなくし、今後も一緒にやっていく意思を確認する場ともなります。また、トラブルが起こった原因を明確にしたいという意図で謝罪の場を設ける場合もありますよね。
この場合、謝罪を受ける側が相手を詰めてしまって、謝る側が殻を閉ざしてしまうというケースもあります。その場合には前に進まないですよね。「チームで同じ失敗を繰り返さないために」とか、「今後のあなたのためにも」と伝えたところで、相手がただ「ごめんなさい」を繰り返すだけになったら、解決につながりません。
──どうすれば、硬直をほぐすことができるでしょうか?
古田 ひとつの方法として、和解に導く第三者を立てることが考えられます。上司やプロジェクトリーダーといった、中立的な立場で出来事を捉えて当事者の立場や心情を理解できる人を介せば、場の流動性や柔軟性が期待できます。
三者で話し合うのもいいでしょうし、先に第三者が個別に話を聞いて、あらためて当事者同士が顔を合わせて謝罪、という手順を踏んだほうが問題の解決につながることもあるでしょう。
──理想的なのは、謝罪が必要になるほど問題が大きくなる前に相談できるような雰囲気を醸成することです。たとえば、マネージャーが部下にあたるZ世代と良好な関係を築くには、どのような工夫が必要でしょうか?
古田 大学で日常的に若者と接している私にとっても切実です(笑)。やはり、日ごろのコミュニケーションが大切だと思いますね。たとえば私たちが学生の頃と違うのは、論文指導はオンラインで済ませることがほとんどです。それでも、月に一度でもゼミとか飲み会などで顔を合わせていると、意思疎通がスムーズになりますね。
おそらく、対面で共に過ごす間に、私たちは相手からいろんな情報を手に入れていて、オンライン上でもそのときの記憶を用いてチューニングしているのでしょう。これは非常に身体的な感覚ではありますが、人間同士が血の通った関係性を築くには、結局のところオンラインでは完結できないのだと思います。
ふさわしい謝罪をよく考えることが、ハウツーよりも実になるはず

──ちなみに謝罪の切り口でいうと、どのようなオフィスが望ましいと考えますか?
古田 難しい質問ですね……。というのも、謝罪は基本的に謝る側が出向くものであって、呼びつけるものではないからです。ただ職場での謝罪というと、執務スペースでは吊るし上げとか見せしめのようになってしまいますよね。だから逆に、謝り方次第では周りの同情を買って、謝られる側がむしろ非難されるということにもなりかねない。いずれにしてもよいとは言えないでしょう。
となると、謝罪は基本的には会議室や打ち合わせスペースみたいな、少し人気のない、静かな場所のほうがよいのかな。一方、迅速さという意味でオンラインでの謝罪という選択肢も、場合によってはありうるかもしれません。まあ、結局のところケース・バイ・ケースなのでしょうね。
──謝罪に正解はないということでしょうか?
古田 冒頭に申し上げたとおり、謝罪は方法論で語れるものではありません。たとえば、生成AIに謝罪文を書かせるのはよくないのでしょうか。きっとAIなら、人間が何時間も試行錯誤してつくったものよりずっと洗練された表現を数秒ではじき出してくれるはずです。でも、どこかモヤモヤしますよね。このモヤモヤの正体は何なのか、といった事柄を、ディスカッションなどを通じて皆で考えるほうが、ハウツーを知るより実のあるものになることでしょう。
先述のスープストックトーキョーは、声明を出すにあたり、社内でかなり議論を重ねたのだと思います。少なくとも声明文からは、しっかりした議論や検討の跡が見える。出来事を真摯に受け止めて、自分たちにできることを形にしました。安易に謝罪の言葉を使わなかったことが、かえって誠意をよく示すものとなったわけです。
月並みな結論ですが、大事なのはやはり、マニュアルやハウツーのたぐいに頼らずに、自分たちはどうあるべきか、何がしたいのか、相手のために何ができるのか、といったことを、そのつどの状況ごとによく考えることです。そのような姿勢を貫くことこそが、いうなれば「正解」なのだと思います。