ウェブ会議で得られない、リアル会議の”熱量”の正体とは?―東海大学 現代教養センター 教授 田中彰吾 博士(学術)インタビュー 前編
記事作成日:[March 17, 2020]
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記事更新日:[April 27, 2020]
BY Yuichi ITO
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働き方改革関連法の施行や今夏の東京五輪開催を背景に各所で進められてきたテレワーク。加えて、新型コロナウイルス感染拡大の懸念から、政府も在宅勤務などを積極的に経済界へ働きかけ、その動向にはより拍車が掛かる。通勤時間の削減やワーク・ライフ・バランスの実現といった個にフォーカスした取り組みにより、働き方のパーソナル化の是非が問われる現在、ワーカーが集い作業を共にしていたオフィスのあり方も再考を迫られていると言っても過言ではないだろう。
2部作の前編では、どこでも働ける時代にもかかわらず、ワーカーがオフィスに集まり一緒に作業することの意味を模索する観点から、非言語コミュニケーションが我々に与える影響について、東海大学 現代教養センター 教授 田中彰吾 博士に話を聞いた。
言葉だけでなく、仕草や表情といった「非言語コミュニケーション」も〈場の雰囲気〉に影響する
間身体性-人と人が出会った場面で無意識のうちに笑顔や欠伸が伝染するなど、仕草や言動が同調する現象。「間身体性が表出する状況では、聞き手も話し手も主観的にコミュニケーションが取れていると感じる場合が多い」と田中氏は語る。会話場面を撮影した映像を細かく分析すると、互いにコミュニケーションが取れていると感じている時は同調が顕著であり、当事者の主観的な感じ方と間体性には相関関係があるという。我々のコミュニケーションにおいて、言語は大切な要素であるが、対峙した相手と円滑にコミュニケーションが取れるか否か、換言すれば〈場の雰囲気〉を掴むのには、身体が大きく影響しているというのだ。
「言葉だけでなく、仕草や表情、ジェスチャーといった総じて〈場の雰囲気〉がどのように絡み合いながらコミュニケーションに影響するのかは、周りの環境やセッティングにも大きく関わってくるし、空間の設計やデザインを考えるヒントを与えてくれる」と田中氏は続ける。人に対しても空間に対しても、我々は感受性を持ってその都度反応しており、一般的に言う、〈相性が良い〉〈馬が合う〉はこのことを良く表している。
田中氏は、そのままだと目に見えない非言語コミュニケーションの様相を記録映像を通して日々考察している。ただ、そのアウトプットは論文や学会発表になり、ビジュアルとして伝えることは難しく、米国の研究者の間ではカウンセリングなどのケーススタディの提供を通して、実体験として理解してもらう方法が一般的となっている。例えば、政治家の演説の際の身振り手振りなどから、より聴衆に伝わる術などを、いわゆるプレゼン術としてカウンセリングしている例だ。
例えばオフィスにおいて4人で打ち合わせをする場合に、あえて1人だけ別室から電話で参加する場合でも、身体に関わる情報が多い方がメタレベルでは円滑なコミュニケーションに寄与する傾向にあるという。息遣いや間合いも含め〈場の雰囲気〉だ。間身体性において身体が同じ場所にあることは非常に重要なファクターであり、相手の身体が見えた時に、自分の身体がどのように反応するか、逆に自分の身体が動いたときに相手がどのように反応するかの循環が〈場の雰囲気〉を形成する。
その点、テレビ会議などのビデオカメラで伝わるものはビジュアルに依存する、視覚以外のチャンネル(匂い、接触、距離など)による感覚が得られない分、情報はそぎ落とされている。人間の知覚は、複数のチャンネルから得た情報を統合することが脳において重要な作業である。そのためいくら視覚の情報量が多くても、視覚情報だけでは対象となる人の印象を形成する際に偏ったものになるというのだ。その人が表出する手段、例えばメールより手書きの文書といったものの方がコミュニケーションの深化が図られ、互いの理解を促しやすいだろう。
とはいえ、適切なコミュニケーション方法を決める鍵は「何を相手と共有するか」
逆に電話だから深い話しができる場合もある。言い換えると、必ずしも全身がビジュアルで投影されている必要はなく、その点は未知数という。話しの内容によっては、メールの方が伝わりやすいものもある。伝達する内容も大切だが、伝達する手段=メディアにより留意すべきことはある。ロジックがはっきりしていて、決を採るだけならテレビ会議の方が早い。一方で会議に参加して、結論を一緒に導いた体感が残るかどうかというと、テレビ会議では残りにくい。
「何を共有したいかによって、人と人のつなぎ方を考慮するのが賢明だ」と田中氏は示唆する。つまり、コミュニケーションの目的によって、手段は変わってくるし、それに合わせて手段を選択することが大切というのだ。電話で話すと要領を得ずメールの方が相手に伝わりやすい経験を誰しも持っているのはまさにそれである。明確な情報を伝えるときはメール、相手の様子を伺いながら進めたいときには電話などと使い分けが肝要だろう。
次ページ:オフィスで企業文化を表現することでコミュニケーションはより円滑になる
複数人のコミュニケーションを活性化させるために〈文化の共有〉が必要となる
身体に関わる情報を多く伝えられ 〈場の雰囲気〉 を共有しやすいリアルなコミュニケーションを行える場所として、また会話の目的に合わせて電話やメールとは異なるコミュニケーション方法を選択できる場所として、オフィスの存在価値は高いようだ。さらに田中氏によると、複数人での会話が生まれやすいオフィスといった環境でコミュニケーションを活性化させるためには、昨今のオフィス作りで重要視される 〈文化の共有〉 が必要になるという。その背景には「システムとしてのコミュニケーション」という概念が存在する。
「人が複数集まるとコミュニケーションがシステムとして機能し始め、ひとりだけの意図ではその場が動かなくなる特徴を帯びだす。上手くシステムを機能させるには、システム間の繋がりを向上させることだ」と、田中氏は説く。昨今の働き方改革を背景に、コワーキングやテレワークなど、働き方がパーソナル化している中、オフィスの存在自体その是非は問われるが、システムを円滑に機能させるための文脈、換言すると「共同体の文化を理解・実践」する〈場〉としてもオフィスは不可欠だと捉えられる。
作業効率=生産性のみを追求するのはオフィスの一部分に過ぎず、論点がズレている。〈文化〉を共有することで、その先にある新しい仕事を生み出す伏線になるだろう。ひとりだけで作業を進めていたら気が付かないような、逆に言えば、複数人で集まり一見無駄な時間を共有することで、新しいアイディアの萌芽に繋がる。システムの面白さは、ひとりでは生み出せないものを、人が集まることで自然と生み出せるようになることだ。強い会社を、定量的に捉える個を足し算した〈加算〉の生産性ではなく、チームで新しい仕事を創出する〈乗算〉で捉えることで共同体の生産性を高められるだろう。技術的なスキルだけで見るのではなく、〈場の雰囲気〉を作る上での補遺を担う文化を共有したメンバーが大切だろう。
文化や価値観を反映できていないオフィスは、企業成長を大きく妨げる
ただ、何を生み出したいかによって望ましいオフィスのあり方も変わる点は留意すべきという。話が盛り上がったとしても脱線ばかりで核心に辿り着かなければ意味がない。上手くいっている組織は高次元で各自の分業がかみ合った状態を土台に止揚できていると考えられる。異なる考え方を持った人間が集まっていることは組織の強みのひとつだが、生産性と創造性という対峙する考え方の両方が成り立つには、異なった考え方を各自が持ち寄りつつ、そこから生まれる文化を共有することが大切だ。文化の共通理解と様々な考え方が相乗効果を起こすことで、生産性と創造性を両立できるだろう。
そのために文化や価値観を共有するオフィスの存在意義は、働き方のパーソナル化が進んだとしても変わらないが、この土台を作ることに腐心する組織は多い。人材開発系の企業が理念浸透を目的としたプログラムを手掛け、クライアント企業にインストールするビジネスが成立しているのはその裏返しだろう。理念を浸透しやすい、社員間のコラボレーションを促し、相互理解や文化共有の一端をオフィスは担いやすいし、同じ組織の人々が唯一集うオフィスだからこそ、それぞれに企業文化や目的のフェーズに合わせたオフィスを作ることに寄与するだろう。
企業が異なるのに、前の企業が使っていたオフィスを別の企業がそのまま運用するのでは目的は達成できない。田中氏は、「ただの作業場に成り下がっており、企業としては自殺行為と言っても差し支えない。中身(=企業)が変わっても、以前のままのオフィスで業務が進んでいくのは、パーツを入れ替えても同じシステムが作れるという意味では機能的かもしれないが、自らの企業カルチャーを生み出せず、本来各企業が生み出すべき特有のものがない」と釘を刺す。
コミュニケーションが活性化するオフィスをつくるには、企業のフェーズに合わせてオフィスを選び、自社仕様につくり変えることが必須のようだ。それはまるで成長する子供が自分の好みに合わせながら、大きくなる身体のサイズに合う服に衣替えしていくかのようである。後編では具体的なオフィスづくりに焦点を置き、認知科学からオフィス環境が人間に与える影響について見ていく。
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この記事の執筆者
Yuichi ITO 食品メーカーからPR会社を経て、オフィスコンサルティングファームの広報へ。社会人スタート以来、マーケティングや広報といったコミュニケーション活動に一貫して従事。ライフワークにワークプレイスや働き方に関する情報発信が加わり、広く興味津々。